大衆が認めているものを認められない場合
娯楽とかエンターテイメントというものには正解がない
それは受け手によるものだから
難解な作品を楽しめる人もいれば楽しめない人もいる
難解でも萌え美少女が出ていれば楽しめる人という人もいる
それを最近になって能力という言葉で説明すればいいんだと気が付いた。
読解力も思考の違いも嗜好の違いも全部、面白いと感じられる能力なんだって
子供が蟻の行列をいつまでも見ていられるのも能力だ
ピカソの絵に価値を見出せるのも能力だ
スポーツ観戦で盛り上がれるのもそう
人気俳優だとかタレントが出てる連続テレビドラマなんかはカメラワークが気になって楽しめないんだけど、あれを楽しんでる人が見ているのはそこじゃなくてもっと別の部分で楽しめている。
ああいうものは作る方も出演者のスター性を押して作る話題性ありきの一過性のもので
自覚はあると思う。安っぽいエンターテイメントを量産しているっていうこと。
構えてみる必要がない-低年齢の能力でも理解できる
宣伝費をかけて周知の事実となっている-見分ける能力がいらない
そうやって最大公約数を出せば万人に受けるということになる
しかしカップラーメンは一番売れているがそれが一番美味しいということとは違う。安い物で満足できる人は幸せだ。有難がるのは惨めだけど。
これは吉牛コピペの人の日記に書いてたことでオリジナルが誰かは知らない。
『1番売れてる歌が1番良い歌だとするならば、
1番美味しいラーメンは、カップラーメンって事になるよね。』
音楽なんて流せば流すだけ売れるもんだと思っている。
最近はダウンロード販売なのでCDという現物を有難がるのはオタクだけと聞いた。
流れてきたものが売れるということは受動態なわけだ。聞こうとする能力や聞き分けられる能力がない人はタイアップで流れる曲か単純に売り上げ枚数の上から順に聞く音楽を決める。
楽しむ能力があるかどうかの判断を他人に委ねているというのが世の中だったんだ。
それが実体の無い有象無象の集団で作り手の商売相手はそれになる。
そんで視聴者を馬鹿にすればするほど作品もどんどん迎合軟化していって悪循環が生まれるからそれはやめて欲しい。もっと視聴者を鍛えるつもりの視点を持ってみせろということでこの話おわり。
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