小説が小さい訳
ひさしぶりにゲームの対戦チームをアップロードしてくれた人がいたので、ゲーム機を取り出して自分のチームと戦わせてみた。結果は圧勝で良かったんだけど、もっと強いチームと戦いたいとも思っていて、相手にアドバイスを送ることもできるんだけど、それで負けたら悔しいから送らないというジレンマを感じた今日この頃。
だから自分の方で改造を使った強いチームを一度作ってみても面白いのかもなと思った。というのは向こうのチームが改造してあったからなんだけど。もうひとつはレギュレーションを設定する。どんどん制限を増やしていってどこまで弱くしたら負けるのかを見極める。でも一番強いチームに興味があるから却下かな。
ところで皆さん小説はどこまでが小説だと思いますか。何ページも何冊もあってもそれは「長説」ではなく「長編小説」なのです。それというのは小説の小さいが表すのは文字の分量ではないからで。こういう時英語で考えてみるとノベルという言葉を使います。そしてノベルをもう一度日本語に戻して見ると本来の姿が、見えてきません。じゃあ答えを。小説は中国語語源で、現実ではない作り話を、取るに足りない価値の無い物と捉え、価値の小さい話から転じて小説と呼ぶことになったそうです。それも今ではノンフィクション小説というものもあるくらいですからそうした定義付けは消えたものと考えて良さそうです。
小説に虚構性は必要不可欠なのか。価値の大小で言うならばエンターテイメント目的の作品なんて小説と呼ぶに相応しいだろう。実用性があるかないかという判断だけのことだ。
そしてゲームのチームデータも取るに足らないこと。負けてないうちは自分から動かない。
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