世界観がおかしい訳と別の言い換え方
『世界観』という言葉に常々違和感を抱いている。
既にそういう意味の言葉として確立されているというのじゃただの思考停止なので、それは言わないことにして自分の考えをまとめてみる。
「作品の世界観」というような使い方が不自然だと思うのは誰の観点なのかと問うた時に釈然としないからだ。それならば世界設定という言葉のほうが意味が通りやすいだろう。
『世界観』と同じ種類の言葉として『人生観』を例に挙げると、『人生観』はその人の人生の解釈の仕方で、どういう観え方、捉え方をしているかというはなしとなる。それなら『世界観』は製作者の視点なのか、登場人物の視点なのか、受け手の視点なのか、主体となる人物が見えてこない。それは「作品の世界観」ではなく、「製作者の世界観」とするべきところだからなのではないか。
だから雰囲気でなんとなく『世界観』というのはやめて『世界設定』を使うことを広めたい。
「独特の世界観を作り出す」という文章に『観』の字はいらない。これは意味を考えずに言葉の調子で世界観と言っているパターンだと思っている。創作しているのは世界であって世界観ではない。
『世界観』といえば設定のことや雰囲気のことや見た目のことを全て包括して表現したように見えるので、語彙に自信がないときに使いやすい言葉なのだと思う。
同じように「歌詞の世界観」が作詞者の発想力を意味しているのなら「歌詞を書いた人の世界観」であり、歌詞が描写しているものは世界観ではなく世界。
『世界観』が使われた文章を読んで置き換えられる単語を考えた時、
舞台設定・世界背景・生活様式・文化・社会・慣習・風俗
作風・雰囲気・空気感
など思い浮かび『雰囲気と設定』でしっくりくることが多かった。もっと丁寧に言うと『その世界の下地となる設定と雰囲気づくり』。
設定と雰囲気と二つ並べるのが億劫だから世界観という一言を自然に選んでいるのか。そして世界観を別の単語で言い換えられないと思うのは二つ以上の意味を持たせているからなのか。
どうして世界観という言葉に行き着くのか。
世界の外観、略して世界観=見た目に表れる設定のこと
世界の感じ=世界感=世界観=肌で感じ取る雰囲気のこと
「世界観がしっかりしている」=設定を見せるための作り込みが随所に見られる
「世界観が壊れる」=世界の作りにまとまりがなく設定が破綻している
この場合の世界観は『世界の作り込み』とも置き換えられそう。
根本にある設定という意味では『世界基盤』という言葉でも納得できる。
まとめ:
1.世界観という以上は観測者がいる。その関係が成立していないのは不自然。
2.『世界』というべきケースにおいて、余計な『観』が違和感を与えている。
3.『世界観』の多くは『雰囲気と設定』で置き換えられる。
世界観が流行ったのは二つ以上の意味を持たせているから。
設定と雰囲気と見た目を同時に表す時に便利に使われている。
正しいかどうかは横に置いて、表現したつもりになれる。
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